2017-06-06 第193回国会 衆議院 農林水産委員会 第18号
それは、戦前の柳田国男とか石黒忠篤とかそういう時代なら、農家の所得、貧農救済というのは農政の目的に掲げてもよかったというふうに思います。ところが、今の状況になると、やはり農政の目的というのは、多面的機能とか食料安全保障とか、そういうふうなところに農政の目的を掲げるべきだというふうに思います。
それは、戦前の柳田国男とか石黒忠篤とかそういう時代なら、農家の所得、貧農救済というのは農政の目的に掲げてもよかったというふうに思います。ところが、今の状況になると、やはり農政の目的というのは、多面的機能とか食料安全保障とか、そういうふうなところに農政の目的を掲げるべきだというふうに思います。
次のスライドを見ていただきたいと思うんですが、四ページなんですけれども、これは、私の尊敬する、農業経済史を研究している暉峻衆三という方がおっしゃっていることなんですけれども、貧農層というのは、かつては、戦前は大変問題だった、これは一九六〇年代終わりには消滅したんだと。 それから、その下のスライドは、農業の種類ごとの所得の状況なんですけれども、養豚農家の所得は一千五百万円もあります。
○山下参考人 私の意見はここにいるほとんどの人の意見とは違うと思うんですけれども、スライドの七ページと八ページを見ていただくとわかるんですけれども、これは暉峻衆三という極めて私の尊敬する、農業経済学者の中でごく限られた先生なんですけれども、もう貧農というのは消えたんですね。 この折れ線グラフというのは、農業所得を勤労者世帯の収入で割ったものです。
○山下参考人 一九〇〇年に、その前ですかね、農商務省という役所ができて、もう随分長い時間がかかるんですけれども、戦前の農林省の一番の狙いは、小作人の解放、つまり貧農の救済、それから零細な農業構造の改善、これだったわけです。 小作人は農地解放で、その農林省の夢はかなったわけです。
この方は県庁の役人だったんですけれども、貧農のところ、貧農の農村に行って、農業の技術開発、そして所得が上がるようにということで、プロフェッショナルの農業者をつくって、そしてその農村を豊かにしました。まさに今の改革は、農業者一人一人のプロフェッショナルをつくるためにやる改革だと思っております。 そして、この人の残した有名な言葉の中に、寝ていて人を起こすなかれというのがあります。
大臣、私は貧農の九人兄弟の三男坊に生まれました。亡くなった両親は、サトウキビ生産と、母豚一、二頭の養豚にいそしみ、私たち九人の子供を育ててくれました。当時の我が家では、サトウキビ代と子豚を売って得る現金収入が全てでした。それでも両親は、九人の子供たちを養育し、学校へ通わせてくれた。私は、ひたすら農業に生き、死んで沖縄の土に返った両親を心の底から尊敬しております。
さらには、内容としては、階級闘争史観、それから貧農史観、自虐史観のオンパレードの内容になっていると。これが文部科学大臣の検定を受け、その教科書が横浜市教育委員会が権限と責任に基づいて正規の採択を行って、その上で現場に行った教科書。
○中川義雄君 私も自分の人生をずっと振り返ってみて、私はやはり教育者として私の両親、両親は二人とも貧農に生まれて字もよう書けない両親でしたが、父は全く、男として負けたら駄目だと、常に強く生きろといって殴られながら厳しい教育を受けましたが、母はまたそれとは逆でして、人には優しくしなさい、必ずどこかで神様が見ている、悪いことをしたら罰が当たる、もったいないことをしたら目がつぶれる、そんなことだけ言って教育
しかし、この地も、その前はいかがであったかと申しますと、貧農、大変貧しい農村地帯でありました。また、漁村も、これも収穫量の多いときもありますし、あるいは量が少ないときもあったりして、どちらかといえば貧しい漁村でありました。 そんな中で、この三河の地域は、昭和四十三年に山から貴重な水をいただいた豊川用水が通水をいたしまして、それ以来、この地域の農業は、飛躍的な発展をするようになりました。
小さな種類、現地で貧農がつくっているようなものは十年間で関税撤廃。しかしながら、その他のものについてはやはり関税を残す。これは、きっとフィリピンは、半歩前進かもしれないけれども、率直に言って失望もしているという話も伝わってきております。
しかし、当初の農協のあり方を考えてみましても、やはり貧農の方を協同してみんなで助け合って盛り上げていこうじゃないかという姿勢であったわけであります。それがある一定の年月を経まして、いわゆる農業以外の方々、非農家の方々と所得が近づいてきた。それによって、本来は、農協の仕組みというか役割というのはまた新たに変わっていくべきだったんですね。
今はそういう議論がないのかどうかは知りませんけれども、そういう議論をすると必ず、貧農切り捨てだ、差別だといったような議論が、国会とは申しませんけれども多かったわけですね。しかし、私は逆でして、むしろ日本の農村ないし農業の最大の特徴は貧乏がなくなったということだと思うんですね、戦前に比べてもそうですけれども。農業はかなり難しいけれども、逆に農民はますます豊かになってきている。
○東(順)委員 それでは、提供したいと言っているこの土地に先住権みたいなものを事実上持っている、いわゆる土地を持たないドミニカの貧農の人たちがいる。このニュースを聞いた途端、物すごいブーイングというか、批判のあらしが起こっている。反対のあらしが起こっている。農業四団体が、早速これに対して、冗談じゃないという声を上げておられますね。日本人移住者会に対してこういう文面が来ています。
八〇%が大変貧農の国でございますから、そういう業者があったとしても、なかなかこれらの手続をとる、あるいは料金を払って皆さんが見れるようにするということは大変難しいのではないだろうかというふうに私は思います。 一方、年々日本人も増加をしているわけでございますけれども、大使館の中で見るのはいいけれども自分の家に帰ってチューナーを買ってまで見るということはもう大変厳しい。
豊田佐吉翁は御承知のように非常な貧農の息子さんでしたけれども、一念発起、発明に次ぐ発明で、これは恐らく万国博覧会、東京の上野で開かれた勧業博覧会で自動織機を見て非常に大きな影響を受けたんです。
かつては兼業農家については、何というか、臨時雇い的なもので、何か貧農というような概念が相当時期までありましたけれども、今日は農家経済調査を見ても明らかなように、農家所得としてはむしろ専業農家よりも上だ、所得としては上だという意味で安定した層でございますが、地域の農業の構成者としては、やはり専業農家あるいは担い手、これを中核とした農業生産の中に作業の受委託その他いろいろな形で参加をしてきておるという点
新農政が三大節目になっておるわけでありますが、そういう意味から、かつての基本法では、規模拡大、効率主義、さらには市場原理、国際競争力、こういうものが言われてきており、まさに貧農の切り捨ての面もあったわけです。一方で環境保全も言ってきてはおりまして、これは一致せずに今日に至っている。平場では、規模拡大で自然環境の負荷が大きくなって地方が落ち込み、土が病み、あるいは死んでいる。こういうことも言われる。
つまり、新しく出された稲の品種、そしてラテンアメリカの方では麦の品種ですが、その品種改良は当然化学肥料を大量に注ぎ込まないと育たない品種になっているようで、その化学肥料を買うことができる富農と、そのお金がない貧農との間の要するに村の中の貧富の差が非常に大きくなって、その結果村の中のいろいろな争いが出てきている。ですから、グリーンレボリューションは失敗であるという話がございます。
ブラジル政府は、「土地なき人々に、人々なき土地を」というスローガンで失業者や貧農の入植を奨励しています。しかし、この人々が持続的な農業を打ち立てるのは困難であり、熱帯林を伐採し、開拓地を次々に造成し、二、三年で土地を放棄して新たな土地に移るという無差別な焼き畑農業が行われております。さらに、その放棄された土地が牧場に変えられたり、牧場経営者が残りの木をことごとく伐採しています。
そういうことで、農村労働者等々との対決が非常に鋭くなって、フィリピンの今のゲリラ問題なんかもそういう緑の革命なるものの、僕は何もゲリラを支持しているわけじゃないんだけれども、やっぱり貧農の農村労働者がああいうところに追い詰められていく問題というのは、フィリピンだけじゃなくて東南アジア全体の問題なんですね。
IRRIは化学肥料や農薬を大量投与しなければならないために富農や地主層に有利であって、貧農や小作はその費用負担に耐え切れずに借金を雪だるま式にふやしていた。こういうような事態というのは、フィリピンやタイのケーススタディーで明らかになっています。また農業の機械化、かんがい用ポンプなどが必要なため、持てる者に有利になっていった。結果として小農は土地を手放して、都市に出てスラムの住人となる。
したがって、非常に恵まれた良質な条件のところにいる人は、昔からそういう土地条件のいいところの人は豊かな村、あるいは土地条件の悪いところに住んでおるのは、いわゆる貧農といいますか、そういうように個人的にも地域的にも非常に大きな差があったわけですね。